日頃よりご指導頂いている古建築等建造物調査研究会の森兼三郎先生にご同行いただいて、”阿波の北方”の文化財建造物の何箇所かを訪ねました。

吉野川流域では、しばしば氾濫する川から運ばれる客土によって、藍の栽培が盛んに行われ、藩の保護奨励のもと、藍染めの染料となる藍のすくもの製造技術などが発達しました。吉野川流域には、こうした藍の製造販売と、繁栄をうかがわせる豪商が数多く誕生しました。

現地で先生より直接詳しい説明があり、歴史ファンにはうれしい一日となりました。


     



               
茅葺入母屋造りの田中家の主屋
国指定重要文化財
田中家は吉野川南岸の石井町藍畑にあり、寛永の頃(1624〜43)より代々続いた藍商の家で、「すくも」や藍玉、青藍を製造販売していました。敷地は南北約50m、東西40mの周りを徳島県産の青石、鳴門石の石垣で築かれ、主屋を中心としてまわりを作業場や蔵がぐるりと取り巻いています。

毎年の吉野川の氾濫を防ぐため、現敷地の造成を安政初年頃(1853)より約30年の歳月をかけて順次完成させました。


母屋は茅葺きで、洪水で水が屋根までくると屋根が浮き上がり船の代わりになるような構造になっており、軒下には船が吊られて緊急事態に備えていました.

田中家全景

表門・中へ入ると広い庭の
向こうに主屋があります。


北東隅・塀の一部が鬼門切り
されています。
北側・石段手前の建物は
安政6年(1859)築
北側・吉野川の氾濫に
備えた高い石垣と寝床
正面が北藍寝床(1873)、奥に見えるのが南藍寝床(1860)築

   
  樹齢400年の水流ヒバ   鉄より丈夫といわれる姫榁の跳釣瓶    重厚な門扉

   
主屋(1864)築
藍を乾燥させるため、
南面に広い庭があります。
玄関を入ったところに梯子で
昇降する様にできている
女性使用人部屋
玄関から・部屋の内部

                  


                    

東側から見た武智家・藍商の栄華を物語る大きな屋敷
徳島県有形文化財に指定されています

田中家から目と鼻の先に武智家があります。こちらも藍の商家でその豪壮な建物は目を見張るものがあります。

藍を栽培するだけでなく、自ら製造・販売も手掛けることによって、「寝床」と呼ばれる藍の製造蔵に囲まれた広大な屋敷になリました。


  
『主屋正面』
右側玄関は当主と特別な来賓客用、
左側が通常の玄関です。
南東の方角から


南面にある藍の寝床

厚さ15cmもある土蔵の壁

藍の乾燥に使われた広い庭と
寝床・納屋

防火用竜吐水

南面に広い庭を持つ主屋と
西側土蔵

1枚の石の大きさにも往時がしのばれます。


南西の裏鬼門を避けて建てられています。

 ではなぜ吉野川流域で阿波藍が栄えたのでしょうか?
藍は1年草で連作が利かないが、川の氾濫によって客土が運ばれ、連作が可能。
水質が軟水である。
交通の便(大阪への船便)が良い。
女性がよく働くこと。「讃岐男と阿波女」の語源。
 だといわれています。